「兆し」や「変化」も受け取ってこそ。そして…
おはようございます。
横山です。
目覚めの朝。
「もう一度ここから始める」と決めたあなたにちょっとした気づきや閃き、きっかけのタネを届けるブログを読んでいただきありがとうございます。
タイトルから。
この1週間ほどの話から。
昨日もその場面があったのですが、最近、自分に対してよく
「変わったね」
「顔がやわらかくなったね」
「服装が変わったね」
と言われることが続いています。
素直に嬉しいと思えて受け取れる時もあれば、それがとっさの一言の時もあり。
この場合、「あっ」となり受け取り切れない瞬間も。
せっかくのギフトのようなメッセージ。
「あっ、受け取れていない」
と思い、1分後に
「さっきの言葉、時間差で受け取りました。ありがとうございます」
と言えました。
自分のこと、「兆し」や「変化」を感じられていますか?
数値化できるもの(日常的にわかりやすいところで言うと体重とか血圧とか)なら日々の違いもわかるかもしれませんが、自分自身のちょっとした部分となると周りの言葉によってもサポートで気づくことがほとんどかもしれません。
あと、素直に話をしてもらえる自分の状態も大切なのかもしれませんね。
話しやすい人なら「〇〇だよね」と言いやすいかもしれないと思います。
それはこの人に話をしてもいいという安心感から。
それが、「〇〇だけれど」と気付いたけれど、
「これを言うと何か違う反応が返ってきても嫌だな」
となれば思っていても、気付いていてもその人の胸の中で終わってしまいコミュニケーションとして不成立でその場が流れてしまうことは誰しも体験をしたことがあるかもしれません。
最近、循環を意識することが日常でも多いです。
それは自分で留めておくのではなく、情報なら必要な方に届けることを意識しています。
それがその人の変化なら
「受け取りやすいタイミング(話す時・会話の内容・呼吸一つにしても)」
で届けることは頭の中にあります。
言いたいことをただ伝えるだけでなく、相手にいかに受け取りやすいようにするのか。
野球で言うならキャッチボールでしょうか。
このブログの最初の部分では「兆し」や「変化」も受け取ってこそという話をしましたが、これが反対にこちらが気づいて相手に伝える時は「受け取りやすさ」が大切だと思います。
すべて自分事として捉えてみて。
お互いにこういう意識で切磋琢磨する環境・関係性を一人ではなくコミュニティとして生かせられる場の大切さも合わせて感じます。
結局、一人で生きているわけじゃないんだから。
このブログはここまで。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
それでは今日も素敵な一日となりますように。