鈍感(力)よりも敏感(力)に
おはようございます。
横山です。
目覚めの朝。
「Re start」
「もう一度ここから始める」と決めたあなたにちょっとした気づきや閃き、きっかけのタネを届けるブログを読んでいただきありがとうございます。
タイトルから。
少し前、「鈍感力」という本や言葉が流行りました。
たぶん意味合いとしては
「何かあっても動じずに」
とか
「感じずに受け流して生きて行く」
ということなのかと自分なりに捉えています。
様々な人がいたり、色んな意見や価値観の中で成り立っている社会であれば、鈍感力を身に着けた方がいいと思う意見があるのもわかる気がします。
逆に敏感(力)がであればどうなのか。
例えば
「察知してしまうのも早い」
「違和感があれば中々それを放置しづらい」
「(あれが)気になる」
となりがちかも。
ちょっとした自分の想像から。
ただ、ここ数年の自分自身を振り返った時、鈍感でやり過ごしていたちょっと前の自分を思い出し、またそれを解き放ちつつある中での今、敏感になって反応を味わえている両面があったなとなりました。
確かにただ生きるだけなら鈍感でもいいかもしれません。
めんどくさいことも感じずにやり過ごせそう。
感じなくして自分をさらけ出さなくていい感覚。
でも、何が気になっているとか反応しているかが段々とわからなくなってしまう。
それは感情までも少しずつ閉ざしてしまうような…。
今、以前よりは明らかに敏感。
一番の違いは
「あっ、ここにいる(この場所)のが違和感」
それは場所そのものであったり、そこに流れる空気感であったり様々。
よくあるのは人混み。
特に大きなターミナル駅でラッシュ時と重なりエスカレーターに長蛇の列が続いてると「これに並ぶならちょっと回避してもいいから違うところからの階段で」
となります。
別にそのエスカレーターが良いとか悪いとかの話ではなくて、密集していて、乗るまでと乗った後身動き取れなくなるような場にいた時のリスクを自分なりに察知したというところから。
ただ、それは鈍感であれば気づかなった部分で敏感になったからこその気づきでもあります。
それ以外にも多々あるものの、感覚で言えば危機回避能力とも。
感じやすいことにメリット・デメリットを感じる方もきっと多いとは思うものの、個人的には何か有事があったとしても最後身を守る時(判断をする時)に活かされるのがこの敏感(力)なのかなと個人的に思っています。
敏感であるというのは仕事をするという点から見ても、価値やサービスを提供する中でクライアントを察知するという部分からも大切だと思います。
「Re start もう一度ここから始めよう」となって自分に焦点を当てつつも、ふと抜けがちになるかもしれないクライアントのことをしっかりと感じるためにも敏感であってもいいのかと。
もちろんバランスがあって寄り添いすぎても違ってきますが、感じられるかどうかは大事だと思います。
あと、敏感になりすぎて気になりすぎるという部分がたぶんクローズアップされると思います。
ここはどういう取り組みを自分自身でするかという話になってきます(自分の経験から)。
自分なりの結論としてはその感情は「ある」ので「ない」ものとはできない。
ただ、それは気になって気になってしょうがないとします。
それは感情を感じきるとかまた違う取り組みを通してということになると思います。
『鈍感(力)よりも敏感(力)に』
今朝はこの話題で書きました。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
それでは今日も素敵な一日となりますように。