【小学校にはじまり何度も受験をしたこれまで 3 (大検を合格するまでのもがいた数年間)】
こんばんは。
横山範葛(よこやまのりかず)です。
このブログは0から1へと「Re start」しようと思っているあなたへ。
「もう一度ここから始める」と決めて動き始めようとしているあなたにちょっとした気づきや閃き、きっかけのタネを届けるものとなっています。
学校と私ということで、受験をキーワードに続けて書いてきました。
今回が3回目です。
【小学校にはじまり何度も受験をしたこれまで(中学生活と高校受験編)】
学校を休んで定期テストも受けていなかったので、内申書はオール1。
公立高校は合格の望みがほぼないということで、私立高校を専願で受験をしたものの不合格。
結果、通信制高校に通うことになりました。
実はここでも不合格に。
公立の通信制高校。
内申書が引っかかったのではないかとあとから誰かに聞いたのを覚えています。
この通信制高校と並行して私塾に通っていました。
将来的には高校の認可(通信制高校のスクーリングを受ける認定のようなかたち)もある私塾ということでたまたま知人の紹介で知りました。
家から通学で1時間。
「遠いな」というのが通い始めての印象でした。
あと、この学校の制服を着るのがすごく嫌でした。
通学で何度か乗り換えるのですが、色んな高校の学生とすれ違います。
特に最寄り駅では中学校の同級生とも同じ時間帯に電車を乗ることも多々あります。
そんな時
「どこの制服?」
とか
「どこの学校に通っているの?」
と聞かれて、よく口ごもっていました。
私塾の説明をするのも嫌だったし、通信制高校の話をするのも当時はしたくなかったし、すべてにおいて今の学校生活に不満で、聞かれたくないというのが本音。
学校自体も楽しくなく、唯一、日生球場へ行くことぐらいが学校に行ってもいい理由になっていました。
今は「もりのみやキューズモールBASE」が建っています。
プロ野球チームの近鉄バファローズが準本拠地として利用していました。
グラウンドと観客席が近い。
コンクリートむき出しの外野席。
そして、野次も通る。
今のレジャー的な野球場を知っている方なら想像できないかもしれません。
1990年代後半の話です。
ただ、野球があるのもたまにで、結局、友達付き合いも楽しくなく、家から遠いというのもあって段々中学校の時と同じように休むようになりました。
中学時代は学校の友達がたまに家まで来てくれたり先生も連絡があったりと何かしらの反応をもらえる環境にありました。
ただ、私塾に行かなくなると当時携帯電話を今のように利用していたわけでもなく、遮断されたような毎日でした。
友達がいない。
親ともそれほど話をしない。
することがない。
外との交流もない。
どんどん存在を忘れ去られるような感覚。
通信制高校に籍はあったものの一人で勉強できるような気持ちにはなれず、結果、ただ在籍しているだけの状況。
結果、1年の終わりに退学しました。
今の私なら何て声を掛けられたのかなと思います。
「今、どうなん?」
「どうしたい?」
「何をやってみたい?」
何て答えたんやろう・・・。
やっぱり、「話を聞いて」かな。
あと、「友達が欲しい」とも。
その後、高校2年次には大検を取ることを一応決めて、大学受験も視野に入れて予備校に籍を置きました。
ただ、籍だけある状況。
いつも思っていたことがありました。
「誰か友達ができたら変われるんちゃうんかな」
「誰か自分の話を聞いてくれる人がいたらまた変わるんかな」
「年上の先生とかチューターのお兄さん・お姉さんとか」
いつもそこに期待していた私がいました。
でも、もしかしたらその環境があったかもしれないものの、
「話せないかもしれない」
「拒否されたらどうしよう」
とその勇気が持てませんでした。
その予備校も機会としてはあったと思うので。
籍を置くだけの時間。
高2・高3の年に大検対策もできる予備校にいました。
大検の試験。
高2の年度は願書を出したものの試験を受けませんでした。
そして、高3の年度は学校の前まで行って、校内に入れませんでした。
「何では入れなかったんだろう?」
もしかしたら不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。
でもね、その場にいることがただただ耐えられなかったんだと思います。
直面する怖さ。
ただ、入れなかったです。
試験を受けて、落ちることが怖かったのかな。
ずっと独学。
その試験まで定期的にでも話をできる人がいて「頑張ってね」の声があったらまた違ったのかもしれません。
今の私が横にいれば、ただただ「どう?」と街を歩きながらでも聞けたのかもしれませんね。
何ができて、何ができていなかったかわからないままの日々。
一人のつらさ。
ほとんど誰かと会話をすることもない時間が続きました。
その中で心のオアシスになったのはここでもプロ野球。
最初は名前も知らないおっちゃんとおばちゃんとの会話。
一人、二人と知り合いができて、段々とみんなで野球を見るコミュニティに。
それが本当に唯一の心の救い。
オアシスだったと思います。
今、思えば野球を観に行ったんじゃないと思います。
話をしに行っていた場所。
知っている顔にまた出会える場所。
そして、「横山君!」と呼んでもらえるところ。
私を知ってくれている人がいる。
年間40試合50試合と観に行く時もありましたが、「横山君」と呼ばれたいために行ってのかなと今、あらためて思います。
身近に知ってくれている人がいる。
学校に行っていればもしかしたら当たり前のことかもしれませんが、誰にも知られていない状況になるとそれが一人でもいてくれるのがどれほどの幸せか。
その声掛けがどれほど心をあたためるのか。
実感した出来事でした。
ただ、高2・高3の年次に通い続けた藤井寺球場も移転となることがわかっていました。
現役なら大学1年生になる年。
大検はまだ数科目しか取っていません。
その後、成人式を前にした年(翌年)に全科目取得するのですが、続きはまた次回書かせていただきます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。