「もう一度」と何度も思って今がある
こんばんは。
横山です。
「今、気付いている新しい価値・可能性をこれから広げていきたいと思う方にちょっとした気づきやきっかけのタネを届けるブログ」を読んでいただきありがとうございます。
1/5となりもうお正月気分はだいぶ薄れてきたとおっしゃる方もきっと多いかもしれません。
街を歩けば「節分の巻き寿司」の予約にバレンタインデーも話題に出つつあり、季節の先取りの中での日々をあらためて感じます。
今日のブログタイトル
『「もう一度」と何度と思って今がある』
はふと街を歩いていて浮かんだことです。
最近は当たり前のように動けています。
朝早く起きるのも自然体に(基本的には目覚ましは掛けません)。
休みであれば昼間に眠たくなれば仮眠を取り、夜も睡魔とともに就寝。
自然な流れ。
本来の人間らしい姿とも言えるのかもしれません。
今は他との比較をして何か見えないものへのプレッシャーを感じることもほぼなく、
「自分自身がどうか」
の物差し(ふと湧いてくる感情)から一つひとつ自分らしく決めています。
ただ、ここに至るまでは本当に長かったですね。
高校を中退して大検(現在の高等学校卒業程度認定試験)を取得したのが20歳になる歳。
成人式を迎えるという年齢。
周りを見ればいわゆる現役で大学進学をしていれば2年生(関西では2回生)のもう終わりかという時期にあたります。
成人式は出たものの
「今、何をしてるの?」
と言われるのが本当に嫌でした。
ただ、誘われて断る理由もなくて行ったものの
「生きていたんだ(相手は冗談なんだろうけど)」
と言われたのはやっぱりショックだった。
相手から見たら中2・中3は学校に行っていない時期がほとんどだったし、その後高校もすぐ中退したので、ほぼほぼ親しい友人しか自分の今(当時の状況)を知らなったという背景もあった。
このブログを書いていて、その時のシチュエーションが何となく浮かんできました。
そういう悔しい思いや寂しさはその後も何度もありました。
しかし、今となってはその状況もすべて自分発信で作り出していたものかとも思います。
何でかと言うと、結局、他者(他人)との比較でうまくいっている・うまくいっていないの判断をしていて、そこには学歴とか経験とか友人知人の交友関係とか本人とは直接関係ないかもしれないブランドや肩書を利用して自分を見せていたなと。
等身大ならまだしも大きく見せて、自分をほめてもらえたり、称賛してもらったり、「よくがんばったね」と言われたかったと思います。
無理して、演じて、頑張って。
それはそれで自分自身の個性。
でも、やっぱり心身ともに負担が来ることはすぐには目立たなくても蓄積されて身に降りかかってきます。
何度もそれはありました。
学業でも仕事でも。
壁にぶちあたり、立ち止まる瞬間。
この立ち止まりがまた長くなり、より自らを苦しめることも。
最初はただただ逃げて、その場しのぎであるものの心が休まります。
一人になれて。
誰にも声を掛けられなくなることが。
ただ、それはほんの少し時間が経てば、「自分は何をやってるんや」になっていきます。
「本当はもっとやれるはず」
「なんで、こんなところでくすぶっているんや」
すべて自分を責めてしまう。
そんな中でもたとえ一瞬の光かもしれないけれど、「もう一度」「もう一度やってみたい」と思う瞬間があったりします。
それは今、思いかえすとチャンスだった。
しかし、何からはじめていいかわからず、もがいていたことも数知れず。
そんな時でも友人・知人が一人でもいて、そして、話をしたり相談に乗ってもらったりで一つひとつ進んできました。
内に向かうと本当の本音の本音の部分が出せなくなってしまうことが間々あります。
特に孤独を感じて、「誰も助けてくれないんや!」と叫びたくなる時なんかは。
もう40歳を迎えるところまで来ましたが、何度も何度もありました。
そして、ここ数年で「自分らしく生きる」と心から思えるようになって、過去のこともフラットに思い返せるようになってきました。
振り返ってみたら苦しい場面は何度あっても
「もう一度」
「もう一度」
「もう一度立ち上がるんや!」
の強い気持ちは消えなかった。
「このままじゃ終われない」
この気持ちが少なからずあればきっと立ち上がれるんじゃないかというのが現在進行形の思いです。
今回はこの内容でブログを書きました。
続きはまた次回。
ここまで読んでいただきありがとうございました。